昭和2年夏準々決勝 福岡中学対高松商業

昭和2年夏の甲子園大会に、東北代表として出場したのは岩手県の福岡中学校であった。全国大会でも天知俊一氏と御好意で鳴尾に宿を取った。天知氏には大会中における万事をお願いしたところ、快く引き受けてくださり、練習場の手配、甲子園球場での諸注意、対戦相手の特徴まで教えてくれた。また、ベンチコーチとして選手と共に行動してくださることになり選手一同は非常に心強く思った。
 
安達部長は、風呂からの帰りには西尾末雄氏が経営する「みやこ亭」に立ち寄り雑談して帰るようになり、その縁もあってか西野氏は福中選手には非常に好意を持つようになった。
 ある日、安達部長は西野氏から一人の運動記者を紹介された。この運動記者は、「みやこの離れを借りて仕事をしていた。休息のために茶の間に来ていて安達部長と顔があった。
 
部長 
「こんど初めて甲子園出場の福岡中学の野球部長です。よろしく」
 
記者
「おめでとう。甲子園での健闘をお祈りします。福岡とは九州ですか」
 
部長
「岩手の北端、盛岡より北に80kmの僻地にある小さな中学校です」


記者 
「そうですか。貴校野球部が歴史有る盛岡中学に勝ったことは並大抵の努力ではなかったことと思いますが、どのようにして彼らに勝る方法とられたのか」


部長 
「自分は野球知識もないし、従って技術方面についても全くの素人ですが、自分は学生スポーツを人生修行の一助と考え,人間を造るに有るとの信念から選手諸君に不平不満なく、苦難、苦行を続けさせましてグランドで汗と血との努力の結晶です」
 
記者 
「そうですか。充分苦労されたことでしょう」
 
 この運動記者は飛田穂洲氏であった。氏は学生野球の先達、野球評論の大家として永年中等学校優勝野球大会の実況を記事として報道していた。この時の安達部長との会話で意気投合し、安達部長が「みやこ亭」を訪れるたびに離れ座敷から出てこられるほどの仲になった。
  その関係から福中には大変な関心を持ってくださり、福中選手も期待に応えて桐生中学を4-1で破り準々決勝に駒を進めた。
 準々決勝の相手は優勝候補筆頭の高松商業だった。この高松商業との一戦では我が国野球史上初めての敬遠満塁策を成功させ、延長十二回0-1で惜敗した。その奮闘ぶりを讃えて朝日新聞の運動記事紙面一面に、戦況と賛辞を掲載し一躍全国に福岡中学の名声が広がったのである。
 
 
 
 
 
 

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