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明治34年開校

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 明治34年(1901)4月28日、岩手県立福岡中学校が開校する。 入学者は108名で、二戸地区からは48名の入学者は当然として、岩手県全域と青森県南部、秋田県鹿角地方、宮城県北からの入学者もあった。 驚くべき事に札幌や金沢、鹿児島などからの入学者も記録されている。    開校して間もなく、福岡小学校の卒業生が校庭で「ベース」をしているのが生徒間に広まった。 すぐに同好会的な集まりができる。  明治35年から八戸中学(青森二中)との定期戦を行うようになる。 用具などは生徒が自前で用意し、学校に無断で試合に臨んだことから登校停止(停学)処分を受けたりもした。  記録に残る最初の試合は明治35年(1902)7月の八戸遠征だ。 戦績は不明だが大敗だったらしい。 翌明治36年(1903)5月29日には、福中グランドにおいて八戸中学と対戦し2-7で敗れる。 明治37年(1904)5月には八戸遠征をし、この試合で6-42という大敗を喫し た。 引率の緒方教諭が責任を取って丸坊主となった。  この試合は岩手日報にも、「ベースボール競争 前日曜日、当中学校生徒緒方教諭引率の下に八戸に於いて同校生徒と其技を競いしが遂に30点の敗を取り帰校せり」と書かれている。  野球に対する異常なまでの熱狂ぶりに、学校当局も手を焼いたようだ。 「野球禁止令」も何度か出されているが福中生の熱狂を止めることはできなかった。   当時の戦績は、何回試合しても勝ったためしがなく技術的には福岡中学は劣っており八戸中学に連敗していた。 明治42年(1909)春の八戸遠征では3回までに3-1とリードしていた。ところが突然豪雨となり無効試合となってしまった。もちろんルール上は勝利とは言わないが、リードしていたことが勝った気持ちとなって意気揚々と引き上げてきた。  八戸との定期戦の他に、修学旅行などを利用して盛岡中学との試合をしたこともあったが全く歯が立たなかったと言われている。当時の盛岡中学は、無敵の強さを誇り連勝を重ねていたようだ。                                     http://www.airinjuku.com/index.html  

初代校長

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旧制福岡中学の初代校長・青木欣四郎は、南部藩槍術師範の家柄で下斗米将真(相馬大作)の大ファンであった。 福中開校と同時に福井県の武生中学から赴任してきた。 福岡中学開校を聞きつけ自ら志願しての赴任であった。 福中開校と同時期に、生徒間で野球が行われたが校長は西洋のスポーツということで公認しなかった。 青森二中(八戸中学)との対抗戦に出場した生徒を停学処分にしたりしたが、生徒の野球熱はやむことはなかった。  しかし、明治39年に前東京帝国大学総長・山川健次郎博士が福中で講演し、「学生は大いにスポーツをやるべきだ」との訓辞をいただき野球部を正式に公認した。   後年は、野球の研究のためにルールブックの原本を取り寄せて研究する田中啓一郎などの野球部員に感心し、ポケットマネーから部費を捻出し、福中野球部の礎を築いたのであった。   「どうせやるなら天下一を目指せ!」口癖であった。   後年の福中生は、伝説の校長・青木欣四郎を偲び応援歌にその名を残したという。大正12年に札幌農学校の応援歌を拝借し、小保内樺之助、内村一三中心になって広めた。 青木氏の足跡は、明治9年仁王小学校での展覧授業。 日本で初めての英検合格者(未確認情報) 明治33年頃、福井県武生中学校教諭。 ... 明治34年、岩手県福岡中学校の校長に就任。 大正2年、大阪四条畷中学校の校長に就任。 大正10年、軍艦浅間で世界周遊中にチリのバルパライソで死去。   http://www.airinjuku.com/index.html

大正初期の野球

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大正期に入ると、生徒の間で野球熱が盛り上がり、学校内でもクラス対抗戦が行われるようになる。   対抗戦は春と秋に2回行われ、各クラスとも応援団を組織し華やかだったと大正期の記録にある。    その対抗試合で上手な選手を選抜して、学校の代表選手を選抜し八戸中学などとの試合に臨んだ。   現在のように毎日練習したのではなく、試合が決まってから2週間ほど合同で練習して試合に挑むことがほとんどであったようだ。このような方式は大正10年頃まで続いた。 野球熱の高まりとともに野球部の活躍も目立つようになる。   大正6年(1917)には一高の内村投手と中松捕手を招き指導を受けた。   福中の村田幸雄と佐藤貞太郎のバッテリーにつきっきりで激しい指導を行い、「他校との試合でも絶対負けない」という強い自信を植え付ける。   選手もこの指導に応え、盛岡高等農林、岩手師範、八戸中学を撃破した。     http://www.airinjuku.com/index.html  

天知俊一から指導を受ける

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福中のエース投手として活躍した中津川昇二選手は、大正15年(1926)3月に福中を卒業後、明治大学に進学し野球部に席を置いていた。 7月には後輩のコーチとして福中にやって来ることになっていたが、急用で果たせなくなった。そこで明治大学の先輩である天知俊一氏に事情を話したところ、快く福中のコーチ役を引き受けてくれることになった。       福中の昆徳治監督は、練習試合から選手全員の長短所を見て貰いたいとの考えから7月4日に盛岡中学との練習試合を組んだ。そして、天知氏には4日の朝に盛岡に着くようにお願いした。練習前のミーティングから戦法まで天知氏の指導で試合に挑んだ。試合は0-1で惜敗したが、試合の運び方、選手に対する采配などベンチの重要さを再認識させられた。   翌7月5日、天知氏の指揮で練習が始まった。前日の盛岡での欠点をどしどし指摘矯正し、最初はバッテリー、続いて各ポジションにつき個人的に懇切丁寧に教えてくれた。天知氏のコーチは懇切丁寧であり、一言一句ただならぬ気合いを込めて納得いくまで動作で示した。野球は科学的に、そして普段の修練はおこたってはならないと何度も選手に言い聞かせた。そのコーチングに選手も天知氏をすっかり信頼した。 天知俊一は明治37年(1903)年12月20日に兵庫県で生まれた。東京の攻玉社中学などで活躍したが甲子園への出場経験はない。大正11年に明治大学に進学し、捕手として活躍した。 明治大学に入学するまでの経緯が、現在では考えられないほど波乱に富んでいる。天知は最初に甲陽中学(兵庫県)に入学した。ここに2年間在籍した後に東京の攻玉社中学に転校した。転校した年に甲陽中学は全国制覇を成し遂げた。攻玉社中学を1年で終了し(旧制中学3年)明治大学へ進学した。旧制の学制では5年修了か4年修了で旧制高校の予科か大学の予科に合格すれば進学ができたが、中学3年修了では進学はできない。 半年間は野球部に在籍したが、中学の修了証書がどうしても提出されないために、再度中学に入り直す事になった。その時に指定されたのが栃木県の下野中学(現作新学院)である。 大正11年秋には、悪びれることなく下野中学に通い始めた。この時に同じく攻玉社中学3年修了で明治大学に進んだ中川金三も下野中学に転校させられた。下野中学には後に福中から

Hのユニフォーム

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福中卒業後、仙台高工に進学し野球部主将として活躍していた小向八郎が大正12年の春に帰省した。 目的は福中野球部後援会の実力者である国分喜一を説得して、福中野球部をを全国大会の予選に出場させるためであった。 小向の熱意を感じた国分は、千浦家光、十文字長吉、古館末太郎などの後援者を集めて東北予選出場を伝えた。 すぐに学校当局の了解を得て、大会本部に申し込んだが締め切りが過ぎていたために出場を果たせなかった。 次年度へ向けて福中生を鍛えようと思い、8月21日に行われた八戸沢田呉服店主催の「五郡連合実業野球大会」に、辻村勘治主将他の福中選手を引き連れて参加し見事優勝を飾った。実質的に福中生主体のチームであり実業団相手に優勝したことで大きな自信となった。 実業団大会へは「日ノ出クラブ」というチーム名で出場した。日ノ出クラブは、それまでのOBチームである「形水会」が名称を変えたものあり、伝統的な「H」のユニフォームを着用した記念すべき大会であった。 http://www.airinjuku.com/index.html

昭和2年夏準々決勝 福岡中学対高松商業

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昭和2年夏の甲子園大会に、東北代表として出場したのは岩手県の福岡中学校であった。全国大会でも天知俊一氏と御好意で鳴尾に宿を取った。天知氏には大会中における万事をお願いしたところ、快く引き受けてくださり、練習場の手配、甲子園球場での諸注意、対戦相手の特徴まで教えてくれた。 また、ベンチコーチとして選手と共に行動してくださることになり選手一同は非常に心強く思った。   安達部長は、風呂からの帰りには西尾末雄氏が経営する「みやこ亭」に立ち寄り雑談して帰るようになり、その縁もあってか西野氏は福中選手には非常に好意を持つようになった。  ある日、安達部長は西野氏から一人の運動記者を紹介された。この運動記者は、「みやこの離れを借りて仕事をしていた。休息のために茶の間に来ていて安達部長と顔があった。   部長  「こんど初めて甲子園出場の福岡中学の野球部長です。よろしく」   記者 「おめでとう。甲子園での健闘をお祈りします。福岡とは九州ですか」   部長 「岩手の北端、盛岡より北に80kmの僻地にある小さな中学校です」 記者  「そうですか。貴校野球部が歴史有る盛岡中学に勝ったことは並大抵の努力ではなかったことと思いますが、どのようにして彼らに勝る方法とられたのか」 部長  「自分は野球知識もないし、従って技術方面についても全くの素人ですが、自分は学生スポーツを人生修行の一助と考え,人間を造るに有るとの信念から選手諸君に不平不満なく、苦難、苦行を続けさせましてグランドで汗と血との努力の結晶です」   記者  「そうですか。充分苦労されたことでしょう」    この運動記者は飛田穂洲氏であった。氏は学生野球の先達、野球評論の大家として永年中等学校優勝野球大会の実況を記事として報道していた。この時の安達部長との会話で意気投合し、安達部長が「みやこ亭」を訪れるたびに離れ座敷から出てこられるほどの仲になった。   その関係から福中には大変な関心を持ってくださり、福中選手も期待に応えて桐生中学を4-1で破り準々決勝に駒を進めた。  準々決勝の相手は優勝候補筆頭の高松商業だった。この高松商業との一戦では我が国野球史上初めての敬遠満塁策を成功させ、延長十二回0-

岩手の福岡高校です

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 岩手県の福岡高校OBです。野球部ではありませんでしたが、縁あって母校野球部の100年史を書かせていただきました。  まだまだ書き足りないこと、当時は書けなかったことなどたくさんあります。少しずつ書き足していけたらと思っています。 I am a graduate of Hukuoka High School in Iwate Prefecture Japan. I am not a baseball player. I  wrote 100 years history of the baseball club of the our school ten years ago.   (Baseball club photos in August 1927)   http://www.airinjuku.com/index.html